永山直樹 作品展 旅立ちました ~旧沖縄少年院の日々
- 会期
- 2022年7月29日(金)~8月11日(木) 11:00~18:00
光と影をモンタージュする〈群-像〉の記録
——永山直樹作品「旅立ちました」によせて
少年院の内部の情報を外に出すことは禁じられていた。だがそれが解除される「奇蹟のような偶然」があった。職場だった少年院が移転することになり、写真で残すことを院長がすすめたことや同僚たちの理解があったからである、と永山直樹はいう。
こうして、2018年に旧沖縄少年院が移転する前の1年半、施設の内部や少年たちの日常に寄り添った稀有な写真記録が生まれた。注意したいのは、撮影が許されたからといっても、保安上の問題や個人情報への配慮から守るべき約束があったということである。そのことが撮る行為を制約もしたが、しかし、その縛りから永山は独自な写真の話法を編み出し、目のパラダイムを変えた。それをここでは〈背中へのまなざし〉と心象の深みに降り立つ〈窓と斜光の思想〉といってみる。
たとえば、壁際の机に向かい一人読書にふける孤影や運動会の練習風景、赤い作業着と作業帽をかぶり玄関を出る姿や青い作業服での園芸作業など、それらはすべて背後から撮影されている。背中がアクセントを打つ。そして、ガラス窓越しであることによって出現した、部屋の中で瞑想する少年の横顔と外の風景の繊細なモンタージュ、薄暗い室内の壁や水色の階段の壁に差し込む斜光がくっきりと浮かび上がらせる格子窓の影、窓ガラスに鋭利な刃物で刻んだ傷のような落書き、それらは〞ここ〞がどのような場所なのかを影の言語で伝えてもいるだろう。
少年院という施設を象徴的に表すのは高い塀とその塀の上部に設えた金網であるが、金網の向きが内側に傾斜していることに無意識がゆさぶられる。隔離し、閉じ込める社会的意志の物象化ということだが、撮られた写真の多くにも塀と金網が印しのように写し込まれている。この少年院の塀と金網の向きは、図らずも沖縄社会の風景に居直っている巨大な米軍基地の金網の本質について気づかせてもくれる。少年院の金網が内に向けられているのとは反対に、基地の金網の上部の向きは外に向けられている。内と外が反転し、閉じ込められているのは沖縄社会であることをしたたかに知らされる。
60年の歴史をもつ建物の壁や鉄格子や廊下などには、規律・訓練を課せられながらも、内観し、旅立った無数の痕跡が残されている。その痕跡を写真家は静かなまなざしで露光し定着してみせた。
初めて永山が手にしたカメラで撮ったのが夜の街灯の下のハイピスカスだとすれば、ここに咲くのは〈非行〉という境を越えた、だが、光と影がモンタージュされた無名という名の群—像ではないだろうか。少年たちの背中が振り向くとき、「奇蹟のような偶然」を記録に開いた永山の写真もまた旅立つにちがいない。
仲里 効(批評家)
永山直樹作品展「旅立ちました~旧沖縄少年院の日々」
全作品紹介
永山 直樹(ながやま なおき)プロフィール
1967年沖縄県生
FC琉球サポーターとして、ブログ「琉球の風」で使用する写真を撮るためにデジタルカメラを手にする。
サポーター仲間に借りた単焦点レンズで、街灯下のハイビスカスを撮り、「俺、いけるかも」と思い、写真を始める。
- 1967年
- 沖縄県沖縄市生
- 1995年
- 那覇少年鑑別所に採用される
- 2010年
- 写真を撮り始める。
- 2010年
- 沖縄少年院へ異動
- 2012年
- JPS展 入選
月刊フォトコン フォトコンスクール自由の部年度賞4位 - 2013年
- フラグメンツ3翼たちの断章「僕のいたトコロ」 沖縄県立博物館・美術館
- 2013年
- 個展「2人展 Shooting」 那覇市民ギャラリー
- 2014年
- 「森山大道終わらない旅 北/南」展関連催事ポートフォリオレビュー展
「BUCK」 沖縄県立博物館・美術館 - 2014年
- フラグメンツ4翼たちの断章「ミズ」 沖縄県立博物館・美術館
- 2016年
- 写真個展集合体フラグメンツ5 「マサ子」 沖縄県立博物館・美術館
- 2018年
- 個展「In My Juce」 ギャラリーるんるん
- 2019年
- 二科会本選 入選
- 2021年
- 写真集「旅立ちました」発行 りぼん舎
写真展「旅立ちました」INTERFACE-Shomei Tomatsu Lab.
本展は、2018年(平成30年)に移転した旧沖縄少年院の中を撮影したものである。
琉球民政府によって1960年(昭和35年)、コザ市に「琉球少年院」が誕生した。当時の沖縄は米軍の統治下にあった。米軍関連の事件が多く、社会は不安定で、沖縄は動乱と緊張に満ちた荒れた激動の時代であった。当時の沖縄社会を反映するかのように、琉球少年院に入ってくる少年たちも荒れていた。毎日のように起きる職員への暴行や集団での逃走。特に1963年(昭和38年)の4月に連続して起きた3件の暴動事件は、逃走を図った少年達が少年院に火をつけ、警察や消防だけでなく米軍のMPが出動して鎮圧するほどであった。この原因として過剰収容と施設の不備が挙げられた。以後、フェンスを塀に変えるなどの対策を講じられてきたが、近年まで緊張感のある時代は続いた。そして、1972年(昭和47年)の本土復帰に伴い「琉球少年院」から現在の名称「沖縄少年院」となった。
少年院の中で非行少年たちがどんな生活をして、どんな教育をうけているのか。なぜ少年院に入るようになったのか。少年院で更生できるのか。社会で問題のあった一癖も二癖もある少年達がおとなしく教育をうけるのか。多くの人は知ることがない世界である。いくつかの幸運によって、写真集にすることができ、今回の機会を得ることができた。
非行少年が少年院の中でどのような生活をしているのか、その一端を知っていただきたい。
永山 直樹