鳥取県在住
植田正治氏との出会いから「写真する」をはじめる。
受賞
- 2005
- 2004年度ヤングポートフォリオ 清里フォトアートミュージアム
- 2006
- ミオ写真奨励賞 優秀賞 ミオホール
- 2011
- 2010年度ヤングポートフォリオ 清里フォトアートミュージアム
- 2020
- 関西御苗場レビュアー賞(服部滋樹氏)(テラウチマサト氏)
- 2021
- ソニーワールドフォトグラフィーアワード 日本部門 佳作
主な個展
- 2000,2001
- Juna21「自己の在る光景」 新宿ニコンサロン, 大阪ニコンサロン
- 2005
- 「私的街景」コダックフォトサロン銀座
- 2023
- 「不在を確かめるために」境港市民図書館
(内1点「わたしのともだち展3」ソニーイメージングギャラリーに参加)
掲載誌
日本カメラ,日本フォトコンテスト等
収蔵先
清里フォトアートミュージアム
—ある少女から渡されたリンゴには傷がつけられていましたー
一般的な「思春期」のイメージは、あらゆるメディアによって流布され、肯定されています。その表現手法は、彼女らを扇動するときすらあります。しかし、わたしは定型の形に違和感があります。なぜだか思春期には遠さがありますし、未だにその時期の記憶が夢に出てきたりもします。もどかしいことに、言葉で表現すると修飾され、違った意味に変換されそうなので、口ごもりながらこの作品をつくりました。
親や先生といった大人と10代の彼女らとの関係は(強者としての)撮る立場と(弱者としての)撮られる立場に似ています。ですから、思春期をテーマにするとき「観察」という手段をとるならば、写真は適するメディアだと思いました。また、客観的でありながら、意図せず主観的に喚起されるイメージの透過性は、みつめる行為そのものだとも思いました。
撮影中、彼女らは制服を着て周囲に溶け込み、戸惑いながらわたしとある一定の距離を保ち続けます。ぎこちない会話も続かず、ただ唯一、レンズがお互いの依り代だったように思います。このような心許ないやりとりに決着をつけようと、答えを求めたくなりましたが、意味はふらふらさせておくことにしました。彼女らは制服と皮膚が擦れるとき、身体的には自身の存在に安心し、精神的には親から与えられた輪郭との齟齬を感じているようでした。
数名を撮影したところで、制服が未完成な彼女らを外圧から守るさなぎにみえてきました。その制服は、彼女らの押し黙る表現を助けます。みる側に一旦考えさせることを保留にさせる力があるからです。でも私たちはその「制服を着た少女」というイメージを容易にたどってはいけないはずです。彼女たちが戸惑ったように、私たちも戸惑わなければいけません。差し出されたイメージを心地よく受け入れたのでは、したたかに戦略を組みながら垂れ流される映像を見ていることと同じだからです。
結局彼女の変化の背景はわかりませんでした。しかし、うつろう彼女らをみつめていると、かつて少女だったわたしもうつろいはじめます。彼女らは、外へは余白としてとりあえず固定したイメージを与えておきながら(それはある意味求められているイメージでもある点に注意が必要ですが)、安全なさなぎの中で移り変わっているのだとしたら、わたしはわからないままに観察するべきだと思いました。このような行き来するまなざしにこそ、「思春期」という名でカムフラージュされている彼女らの「本当の態度」が立ち表れてくるのだと思います。